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第十四章
唐突に、春吉の耳を聾していた轟音が止んだ。翼下の推進器の火薬が、燃焼し尽くしたからだった。
それと同期して、背中が押しつけられるような感覚が消えた。
わずかな風切り音だけが、耳に届く世界。時折、尻の辺りがむずむずする感覚は、春吉がそれまで体験したことのないものだった。
空を飛ぶというのは、こういうことなのか。
まさに、浮遊感覚。
しかし春吉にとって、それはむしろ居心地の悪さに繋がるものだった。
もぞもぞと、落ち着かない春吉の様子を見て、
「どうした。想像してたのと違うか?」と、老人。
春吉は、こくりと頷いた。
「始めはみんなそうじゃ。じゃがいずれ…」老人の口元がゆるんだ。
「足を踏板に乗せて。均等に力を入れるんじゃぞ。それから、操縦桿を中央に」
老人が指示を出した。
春吉が言われたとおりにすると、老人がゆっくり手を離した。
春吉は、緊張しながらも、なんとか姿勢を保っていた。やがて、
「そろそろ動かしてみるか」
老人は独り言のように言うと、
「右に旋回するぞ。操縦桿を右に」今度は、はっきりした声で言った。
「右の踏板を踏んで」「操縦桿を戻して」「少し引いて」
老人が、矢継ぎ早に指示を出した。
言われるままに手足を動かしていた春吉だったが、やがて自分の動作の通りに機体が反応していることに、改めて気づき始めた。
訳も分からずここまで来てしまった春吉だったが、ようやく空を飛ぶことの楽しい部分が実感できるようになってきたのだった。
「要領は分かったか?では、好きにやってみろ。なに、急激な動作さえしなければ、落ちやせん」
春吉はそれまでの老人の指示を反芻しながら、ゆっくりと動かし始めた。
「そうじゃ、その調子」
老人がほめた。
「どうじゃ。まだ落ち着かんか?」老人が訪ねた。
春吉は、さっきまでの不快感が、跡形もなくなっていることに気づいた。それどころか、こんな爽快感は生まれて初めてだった。夢中になっている自分に気づいた。
「さーて、そろそろ降りるとするか。嬢ちゃんが心配してるかもしれんでな」老人が言った。
春吉はまだ飛んでいたかったが、確かに綾華には、機体が無事なのか、墜落しているのかは全く分からないはずだ。切り上げ時であることに、春吉も同意した。
いざ降りる段になって、春吉は、どうやって着陸するのか、ということに気がついた。
練兵場のような広大な空き地が、どこかにあるのだろうか。
急に地上を、きょろきょろ見回し始めた春吉の様子を見て、老人は、
「谷に下りる。裾側から進入して、吹き降ろしの風を受けながら、そいつで引っかける」
と、操縦席前方にある支柱の先端を、指さした。
そこには、鋭く折れ曲がった鋼鉄製の鈎爪が取り付けられていた。
「とは言っても、いきなりは無理じゃな。代われ」
老人はするりと操縦席に滑り込むと、操縦桿を握った。春吉は、恐る恐る後席へと移った。
老人は機体を大きく旋回させながら、徐々に高度を下げていった。
地表がぐーっと近づいてきた。
老人は、機体を微妙に制御しながら、谷の裾側へと回り込んでいく。
老人は機首をぐいっと持ち上げると、しばらくその姿勢を保ち、再び機首を下げるということを繰り返した。
春吉は何をしているのか最初は分からなかったが、やがてその度に速度が遅くなっていくことに気づいた。
機首が持ち上がる直前に、前方の空間に、細くて鈍く光るものが、一瞬見えた。
−なんだあれは−
と、思う間に、「足を踏ん張れ」と、老人の叫び声がした。
反射的に、春吉は両足を踏ん張った。
そして、次の機首上げの時、機体を鈍い衝撃がおそった。
まるで振り子のように、機体が小刻みに揺れた。
見ると、支柱の先端が、谷を横切るように張り渡された鋼索に引っかかっている。
こうして、春吉の初飛行は無事終了した。
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