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第八章
声の主は、言うまでもなく綾華だった。
「それにしても、なんて格好なの?危うく見過ごすとこだったわ」
綾華は、二人の頭のてっぺんから爪先まで、視線を這わせた。
老人も春吉も、それまでの和服姿から一転、時代の先端を行く洋服に身を包んでいたのだ。背広にチョッキ、ニッカボッカにゲートル。頭にはハンチングという、お揃いの格好だった。それらは直前に、駅近くの古着屋で見繕ってきたものだった。
「お前こそ何だ、その格好は」今度は、春吉が質す番だった。
綾華の方はと云えばその逆で、いつもの、いかにもお嬢様然とした装いではなく、すこぶる地味な町娘のいでたちだったからだ。二人が気づかなかったのも無理はなかった。
三人はとりあえず、あまり目立たぬように柱の影に移動した。
「なんでここが分かった?どうやって家を抜け出した?」
春吉が、興奮気味にまくしたてた。
「簡単よ。女学校のお友達が心配して、今朝も七人ほど来てくれたの。で、事情を説明したら、みんな協力してくれて…」
「事情を説明って、おい。全部喋っちまったのかよ」春吉が気色ばんだ。
「心配ないわよ。二人のことは喋ってないわ。勿論、あの男達のことも」綾華は冷静である。
「じゃ、なんて言ったんだ」春吉は追及の手を緩めない。
綾華の表情が急に硬くなった。何度か口に上そうとして、もじもじしていたが、やがて、
「行方不明になっていたのは、好きな帝大生の方と密会してたためで…それがバレて連れ戻されてしまった、って。…で、どうしてもまた逢いたいって言ったら、みんなその気になって…。それで、みんなが帰るとき、そのうちの一人と摩り替わって外に出たの…」綾華の頬がほんのり赤く染まっている。
春吉は開いた口が塞がらない。
「どうして、わしらがここに来ると思ったのかな?」
今度は老人が尋ねた。
綾華の表情が、一転して明るくなった。
「東京に戻ったからには、西へは行かないと思ったの。となれば秩父か秋田。どっちにしても上野から汽車に乗るしかないわ。だからここで待っていたの。まぁ、一日待って現れなければ、あきらめるつもりだったけど」
どうだ、と言わんばかりである。
「ふふ、策士、策におぼれたか。ふふふ」
老人は、苦しそうに笑った。
「俺ら、一文無しだったんだぜ。どうやって切符買うと思ったんだ」春吉が憮然と言う。
「あら、そうだったわね。すっかり忘れてた」綾華は屈託なく笑った。
「そういうところはお嬢様だね。いくら庶民の格好をしたところで」春吉は嫌みたっぷりである。
綾華は喉元まで出掛かった反論を飲み込み、改めて、
「…で、お金は?」表情が先ほどより締まった。本気で心配しているらしい。
「大丈夫。臍繰りが手に入ったんでね。もうお前なんかに頼る必要はないの。お前さんは用済み」春吉は、素っ気無く言った。
「なによ、お金お金って。そんなに私がお金をだしにして、あなたたちを見下していると思って?あたしは…あたしは…」今度は、綾華の目にうっすらと涙が浮かんだ。本当に、表情のくるくる変わる娘で、春吉はたじたじである。
「まぁまぁ。この様子じゃ、帰れと言っても帰らんじゃろうな」老人が綾華に視線をくれる。
引き締まった綾華の表情が、意志の固さを雄弁に物語っていた。
「仕方ないの」老人が呟いた。
「おい、いいのかよ?」春吉。
「お主、説得できるか?」老人の一言に、春吉は言葉に詰まった。
「では決まりじゃ」
三人は改札を抜け、目指す汽車へと乗り込んだ。
やがて汽車は、上野駅を後にした。
「いいか、これからわしらは、お嬢ちゃんの察しの通り、秩父へ行く。わしの隠れ家があるでの。そこで奴等と決着をつける準備をする。お前さんの仕事も、山ほどあるぞ」と、春吉を見据えた。
春吉は力強く頷いた。
老人は綾華に視線を移し、
「お嬢ちゃん、一緒に来るからには、あんたにも働いてもらが、いいのぅ」
「勿論よ。こう見えても長刀で鍛えてるのよ、あたし」綾華。
「それは心強い」老人は楽しそうに笑った。
「でも、平賀源内といえば秩父、というのは私でさえ気がついたわ。彼らも気づくんじゃ…」
綾華が、心配そうに呟いた。
「秩父といってもそれなりに広い。公式な文献に載っとる場所とは、ちと離れとる。それにのう、お嬢ちゃん…」
「西洋の兵隊達が信じとる言葉にこんなのがある。『大砲の弾が一度落ちた所には、二度と落ちない』ってな。奴等はやってくると真っ先に秩父に入り、何もないことを確認している。だから一番安全なのじゃ」
汽車が東京を出るところで、春吉は思い出したように、
「ところで、昼間行ってた『工夫』って?そろそろ荒川だけど」
「この格好が、その仕掛けじゃ。お嬢ちゃんがその姿なのも、好都合じゃな」
「なんのこと?」綾華には、この件は初耳である。
「なーに、奴等が放った斥候の目を誤魔化す手だての話じゃ」
「斥候?誤魔化す…」綾香はまだ、釈然としない。
「奴等は常にある生き物を連れて行動する。じゃから別荘に現れたときも、わしらの姿をよく覚えこませて、わしらを見失った後も、探索の手先として使っているに相違ない。じゃが、そいつらはあまり賢くない。着ているものがまるで違っていれば、識別できないのじゃよ。じゃから、こんな格好に変えたという訳じゃ」
「ある生き物って?犬か何か?」綾華が不思議そうに尋ねた。
「まぁ似たようなもんじゃが、いずれ分かるじゃろ」老人はあっさりと答えた。
結局、汽車は何事もなく、東京を後にした。
埼玉県、秩父。
街中の店で購入したランプやシャベル、生活用具や当座の食料を含む諸々を背負った一行は、大滝村方面へと向かっていた。
既に二回ほど野宿を繰り返し、道はとっくにけものみちに変わっていた。
驚いたのは、老人の脚力である。初対面のときから元気な爺さんだとは思っていたものの、春吉の倍はあろうかという大荷物を担いでいながら、全く疲れたような気配を見せない。春吉と、そして綾華も、改めて老人の生命活力の強さを思い知ったのだった。
夕刻。山腹に、半ば斜面に埋もれるようにして建っている物置小屋が、見えてきた。
そうとう荒れているようで、誰かが訪れた様子はない。
三人は、注意深く中へと入った。
小屋の中も荒れ放題だった。老人は荷物の中からランプを取り出し、明かりを灯した。
小屋の一方の壁は直接山肌で、廃材が乱雑に立て掛けられていた。
老人が材木を払いのけると、そこに漆黒の闇が、ぽっかりと口を開けた。
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