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第七章
翌日の朝、三人は湯本の駅前にいた。
あの後、一行は綾華の案内で、一件の農家に身を寄せた。そこは石崎家の所有する土地で農耕を営んでいるのだが、別荘にも野菜類を納入している関係で、綾華にも馴染みがあったのだ。不意の訪問にも関わらず、三人は総勢十一人の家族から、たいそうな歓待を受けた。といっても、綾華がご主人様だから、という訳ではないようだった。
そこは『深窓の令嬢』の生活感覚からいったら、眉をひそめておかしくない住環境なのだが、まるで我が家のように屈託なく振る舞う綾香の姿には、なんの違和感もない。ここでも春吉と老人は、綾華の思いがけない一面を知ることになった。
一泊した後、まだ暗いうちに荷馬車を出してもらい、駅まで送り届けてもらったのだった。
「じゃ、電報頼んでくるから待っててね。ま、何処にも行けないでしょうけど」
悪戯っぽく笑うと、綾華は小走りに駅舎を離れた。家に『無事だから心配しないで』と、連絡するのだという。綾華は、どこまでも同行するつもりのようだった。
実際、二人は困っていたのだが、如何せん、金は綾華が持っているのだ。あらかじめ別荘の金庫から拝借してきていたらしいのだが、無一文の二人にとって、背に腹は変えられない。
「いずれにしても、東京へは戻らにゃならん。ひとまずは一緒に帰る。その後、隙を見て離れる。いいな」
老人と春吉は、綾華が戻ってくるまでの間に、合意に達していた。
ということで、一行はひとまず東京へと向かったのだった。
東京。本郷区湯島。
あたりが仄暗くなり始めた頃、三人は石崎邸裏手の路地に居た。
ひとまず春吉と老人を残し、綾華だけが通用口へと近づいていった。
そこへ偶々、使用人の一人が顔を出した。
綾華の姿を認めるや、その中年の婦人は意味不明の言葉を発しながら、すがり付いた。
綾華は何がなにやら分からず、目をパチクリさせている。
「お、お嬢様が戻りました」
今度は、春吉と老人にもはっきり聞き取れる大声で、叫んだ。
一瞬の後、中から警官が数人、飛び出してきた。
彼らは辺りを見回していたが、春吉と老人に気づくと、さっと身構えた。
「こら!そこの二人。おとなしくしろ」一人が言うなり、警棒を前に突き出した。
警官達が迫ってくるのを見て、老人が二三歩後退ったかと思うと、
「逃げるぞ」
と低く囁くなり、くるりと反転して走り出した。慌てて春吉が後に続く。
「待てぇ、待たんかぁ」
警官達は口々に叫びながら、後を追ってくる。
呼子の甲高い音が、あたりにこだました。
角を曲がるとき、春吉にはちらっと見えた。
なにやらもがいているようだったが、数人の使用人に組み止められて、その場を動けずにいる綾華が。
逃げ回ること、小一時間。
命からがら逃げおおせた二人は、とある橋の下に身を潜めていた。
「なんだよ、いきなり。なんで逃げなきゃいけないんだよ」春吉がひそひそ声で、詰問した。
「わしは警察と関わる訳にはいかんのじゃよ。なにせ??年前に死んでいる男じゃからな。まぁ、正直に話しても信じちゃもらえんだろうが、病院送りは確実じゃろな」
確かに、と、言われて春吉は納得した。
「だけど、なぜ捕まえようとしたんだろう。何も悪いことはしてないのに」
「単に、話を聞きたかっただけかもしれんが。それとも、わしらを誘拐犯とでも思ったんかな。あれだけ派手な騒ぎを起こして、令嬢が行方不明になったんじゃからな」
冗談とも本気ともつかない言い方だった。が、続く言葉にはつくずく実感がこもっていた。
「だがこれで、お嬢ちゃんを危険な目に会わせずにすむ。まずは一安心じゃな」
翌未明。二人は、春吉が奉公していた自転車屋に戻ってきた。
結局、自転車屋は離れと母屋を全焼、両隣の数軒が全半焼という有り様で、後片付けもろくにされていなかった。
親方達は、近所に持っている長屋にでも避難しているのだろう。人の姿は全くなかった。
春吉は、離れのあった場所に入り込むと、暫く位置の確認をしていたが、やがて地面を掘り始めた。程なくして、木箱が現れた。中には更に布袋が収められていて、それを開くと、透き通った握り拳大の球体が出てきた。
「ほう、水晶か。見事なものじゃな」老人が感心した。
「これは唯一の、親の形見なんだ。いざとなったら売って金にしろ、って言ってね」春吉は軽く拝んでから、袋を懐にねじ込んだ。
二人はその場を離れた。
もう二度とここへ戻ることはないだろう。と、春吉は思った。
「さて、じゃお次はわしに付き合ってもらうか」老人が歩きながら言った。
「どこへ?」と春吉。
「下総の国、国府台(こうのだい)」老人。
「下総…ああ、千葉県か。何しに?」再び春吉。
「ある寺で、ある物を受け取る」老人。
「お寺?ある物?」春吉。
「寺というのは、引っ越される心配がないし、相応の心付をしておけば、物を預かってもくれる。わしは全国あちこちの寺に、いざというときのための軍資金を用意しているのじゃ」
「金ならこれを売れば…」春吉が、さっき掘り出したばかりの袋を差し出した。
「馬鹿を言うな。親の形見を簡単に売ってはいかん。金のことはわしに任せろ。それに」老人は、不思議な笑みを浮かべた。「いつか役に立つぞ、そいつは」
奥から、箱状の風呂敷き包みを持って現れた住職は、老人が訪れた当初から、さかんと怪訝そうな表情を見せている。
「もう三十年も前の話です。私は五歳の子供でしたが、その時のことはよく覚えています。当時は…あ、いえ、今でも珍しい舶来のお菓子を頂いたものですから。その方、つまりこのご遺品を預けられていった方が、あなたにそっくりなのですよ」
「いやぁ、その人物というのは、わしのおやじでして。よく生き写しだと言われるのですよ」
老人が頭に手を当て、笑いながら言った。
「なるほど、そうでしたか。あ、はは」
つられて住職も、愛想笑いを返した。
老人はお堂の隅の方で包みを解いて、何やら拝んでいたようだったが、やがて戻ってきて、
「ではまた、これをお預かり頂けますかな。ついてはほんの些少ではありますが、御心付を」と、紙包みと一緒に住職に手渡した。
住職は合掌して受け取った。二人は寺を後にした。
「これで動き易うなった。さて、次は上野じゃ」老人は先ほど手にした、数枚の小判を弄びながら、言った。
「上野?」春吉。
「ああ。汽車に乗るんでな」老人。
「でもそんな繁華街、あいつらが待ち伏せしてるってことはないかい?」春吉が不安そうに尋ねた。
「青い石なき今、さすがに奴等もわしの居場所は掴めないはずじゃ。東京に戻ったという確信すらなかろう。となれば…もしわしが奴等なら、街中には見張りを置かんな。相当の大人数を掛けにゃならんし、掛けたところで、わしらを見つけられる割合は相当低いからな」
「考えられるとすれば、東京の国境を出入りする汽車を監視することじゃな。これなら数人でなんとかなる。だから、気をつけなければならんのは、汽車が東京を出るときじゃ。ま、それもちょっとした工夫で躱せるがの」老人の言葉に、
「工夫?」春吉は首を傾げた。
夕刻。上野駅の構内。二人は、出札所へと向かっていた。
その二人の前に、すっと人影が近づいた。避けるように行き過ぎようとする二人に向かって、
「やっぱりここだったわね。三時間待った甲斐があったわ」
聞き覚えのある声だった。
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