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第四章
その夜、三人は箱根の石崎家別荘にいた。
賓客用のローマ風呂では、老人が大理石の湯船に浸かっていた。傍らでは、女神像が持つ壷から流れ出る湯で、春吉が頭を洗っている。
「あの硝子壜を手放したおかげで、少しは時間が稼げそうじゃ」
老人が手足を大の字に伸ばした。それでも湯船の端までは届かない。
「そうだ!兄弟子は?」
頭を洗う手を止めて、春吉が叫んだ。それまでは余裕がなくて、とても兄弟子の心配どころではなかったのだ。
「奴等も殺すのではなく、生け捕るのが目的だからな。それで特殊な銃を使ったのじゃ。命の心配はいらん」
老人は、素っ気無く応えた。
「むしろ、あの親方が親身に手当てをしてくれるか、そっちの方が心配かの」
「それは無理ってもんだよ」春吉は即座に答えた。
「ケチで強欲で情け知らず。親方の家は代々高利貸しでよ。たまたま、おかみさんの弟が自転車会社の技師なんで、副業で自転車屋も始めたんだけど、これも本当の狙いは上流階級にコネを作るためで、親方自身は自転車にこれっぽっちも興味はないんだ」
そして、ふたたび頭を洗いはじめた。
「ほぅ、兄弟子も災難じゃな」
「とはいっても、兄弟子の実家は佐倉の名主だからな。三男坊なんで家督は継げんけど、養生する間くらいの食い扶持にはちっとも困らんし、次の働き口もすぐ見つかるさ」
春吉の言い方がうらやましそうだったのを、老人は見逃さなかった。すかさず、
「そういうおまえはどうする?おまえも実家に帰るのか?」
「おれに実家はないさ。両親はとっくに死んでるし。身寄りはないこともないが、帰りたくはないし…」
口調が寂しげに変わった。感情がそのまま言葉に表れるのが、老人には手に取るように分かった。
「店に戻るか?」
「倉庫は全焼、おまけにあれだけの在庫や部品がただの鉄屑になっちまったんだから、自転車屋は多分廃業だろうな。それに今更戻ったところで、喜ぶどころか、火付けの共犯扱いされるのがオチさ」
今度は皮肉か、と老人の口元が綻んだ。
「ではどうする?」老人が畳み掛ける。
「さぁ、分からん」
頭を洗い終えた春吉が、湯舟にざぶんと飛び込んだ。
「わしを責めんのか?全ての原因はわしじゃぞ」
老人の目が、意味ありげに光った。
「じいさんが悪い訳じゃないよ。俺、小さいときからこういうの慣れててさ。それに、何ごとも人の所為にするのは好きじゃない。したところで、何も解決しないからな」
「若さに似合わず、しっかりしとるのぅ」
今度は老人が、皮肉っぽい表情を作った。だが、春吉はそんなことにはお構いなしに、
「俺には将来何としてでもやり遂げたいことがあるんだ。だから、そのために出来ることを、その時々に精一杯やる。愚痴をこぼしてる暇なんてないってことさ」
「なんじゃ、そのやりたいことというのは?」
老人が興味を示した。
「笑うなよ」と釘を差したのち、
「飛行機を自分で設計して、自分で作り、自分で飛ぶ。それが俺の夢なんだ。自転車屋を選んだのも、ライト兄弟っていう、世界で始めて飛行機を飛ばした人たちが自転車屋だったからなんだ」
そう語る春吉の目は、遠くを見ていた。
老人は暫く黙っていたが、
「よし、やっぱりわしが見込んだ通りじゃな。なかなか骨がある。どうじゃ。わしの助手にならんか?」
「助手、って何をするんだ?」
春吉が、怪訝そうに聞き返した。
「まぁ、いろいろじゃ。実はな、あの日代々木に出向いたのは、助手を探すためだったんじゃよ。機械好きの、活きのいいのがおらんかと思ってな」
「あーっ、ってことは、じいさん、俺を引き込むつもりでわざとやったな」
春吉は呆れた表情で叫んだ。
「そう思いたければ思え」
老人は高らかに笑い声を上げた。
「着替え、ここにおいとくから」
脱衣所の方から、綾華の声が聞こえた。
「忘れてた。綾華はどうする?やっぱりまずかったかな、あいつを巻き込んだのは」
春吉は急に真顔になった。
「まぁ、あの状況じゃと中途半端なまま置き去りにしてきた方が、よっぽど危険だったかもしれんしな。いずれにしても、二、三日のうちにはここも突き止められる。これ以上、あの娘を連れ歩く訳にはいかんな」
老人も、それまでとはうって変わって真摯な口調になっていた。
「明日の朝にでも、二人だけでそっと抜け出そう。親御さんには叱られるじゃろうが、そんなことでへこたれるような娘ではなさそうじゃしな」
「そうしよう」春吉には勿論、異存はなかった。
風呂から上がった二人を待っていたのは、質素ではあるが飛び切り新鮮な素材を使った夕食だった。
前日の晩以来、ろくに食べ物を口にしていなかった三人は、よく食べた。
食事を作ってくれたのは、別荘の管理人夫婦だった。初老の夫婦は、突然の−それも煤にまみれた怪しげな二人の男を引き連れての−綾華の来訪に驚きはしたものの、余計な詮索をするでもなく、淡々と職務を遂行した。
石崎家の伝統もあったが、それ以上に、老夫婦は綾華のことが可愛かったのだ。姉達が主人と使用人という一線を超えようとしないのに比べて、綾華は誰にいわれる訳でもなく、小さい頃から二人とは対等に接してきた。だから彼女に対する二人の信頼感は絶対的なものがあった。綾華のすることに間違いはない、と。
食後、居間に移動した二人は、赤々と燃える暖炉や、その上の鹿の首の飾りを珍しそうに眺めていた。まるで西洋の城を思わせるその造りは、ここが外国人の賓客を招待することを目的としていることを示していた。
そこへ、
「さ、お茶が入ったわ」
綾華が、銀のトレイに紅茶のセットを載せて入ってきた。
「さて、今朝の続きよ。おじさま」
ソファから身を乗り出すようにして、綾華が老人を促した。顔中が好奇心に満ちあふれていた。
「話せば長くなるが…」
老人は紅茶を一口すすると、深々とソファに身を沈め、淡々と話し始めた。
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