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第一章


 明治43年12月19日。東京市。代々木練兵場。
 そこは早朝から、黒山の人だかりで埋まっていた。なぜならこの数日、ここで日本で初めての、飛行機による試験飛行が行われているからだった。

 その日、新見春吉もそこにいた。
 春吉は、15歳になったばかり。彼は兄弟子の山岡藤太と一緒に、特別に親方の許可を貰って、ここに来ていたのだった。

 彼らの職業−春吉はこの歳で、りっぱな社会人なのである−は、自転車整備工。当時としては、時代の先端をいくハイテク技術者だった。といっても、春吉自身はまだまだ駆け出しの身。部品の洗浄や研磨ばかりで、自転車本体にはなかなか触らせてもらえなかったのだが。

 そんな彼らにとっても、飛行機はさらにその上をいく、スーパー・ハイテクだった。彼らも最初に飛行機を飛ばしたライト兄弟が、もともとは自転車屋だったことを知っていた。春吉にしてみれば、いつかは飛行機というのが夢、あるいは夢のまた夢なのだった。

 午前七時五十分。いよいよ飛行が始まった。
 機体はアンリ・ファルマンIII型、操縦するのは徳川好敏大尉だった。
 それまで、地上をわずかに離れる程度だった機体が、その日は長く、そして高く宙を舞った。

 連日に渡る懇願の結果、なんとか親方の許しを取りつけられたのは、この日だけ。たった一日のチャンスだった訳だが、これほどの飛行を間近で見ることができて、感激に浸る二人だった。
「すごいなぁ」二人は、それ以外に語るべき言葉を持たなかった。

「へ、たいしたことないわ」
 感激に浸る二人に、冷や水を浴びせかけるような声が、すぐ後ろから響いた。振り向くと、そこには小柄な老人が杖を片手に立っていた。ただし、杖は持ってはいるものの腰が曲がっている訳でもなく、顔や手の色艶もいい。春吉は、老人が妙な精気を発散しているような感じがした。

「どこがたいしたことないんだよ」
 藤太がぶっきらぼうに言った。
「なにもかもじゃ。こんなもん、わしゃとっくに発明しとるわい」
「このじいさん、頭おかしいんじゃないのか。相手にすんな」

 藤太は春吉に小声で囁くと、無視して空に視線を戻した。
 春吉は、しばらく老人と空と交互に視線を移していたが、ふとしたスキに消えてしまった。春吉は、不思議とあの老人の事が気になった。

「いやぁ、すごかったなぁ」「そうですねぇ」
 二人は未だ興奮覚めやらず、店に帰ってきた。
「ただいま戻りましたぁ」
 二人が店の奥に声をかけると、

「おお、戻ったか。こっちへこい」
 店主−二人は親方と呼んでいた−が奥の事務室から半身を乗り出しながら、手招きをした。
 奥へ呼ばれるときは小言を食らう時、と、ここでは相場が決まっていた。身に覚えはないものの、二人は条件反射的に緊張した面持ちで、親方の前に立った。

「おまえら人助けしたんだって?こちらさんがわざわざ土産まで持って、礼を言いに来て下すったんだ」
 親方が、その巨体をゆするようにして、身をよけた。
「よぉ、早かったの。寄り道もせずに戻ってくるとは、感心感心」

 事務室のソファに腰を掛け、お茶をすすっていた人物が、声をかけた。それはなんと、さきほどの練兵場で出会った、あの不思議な老人だった。
「な、なんであんたがここに…お、俺達は何も…」
 驚きのあまり、藤太の声は裏返っていた。

「あんたらが気にいったからじゃ」老人は、淡々と答えた。
「でもどうやってここが…」今度は、春吉が問い質した。
「なあに、あんたらの半天だよ。店の名前が書いてあっだろ。それさえ分かればあとはたやすいもんじゃ」

 二人は同時に、お互いの着ている半天を見た。普段はあまり気にしないが、間違いなく襟のところに店名が刷り込まれている。
「わしは福之内喜外と申す。諸国を漫遊中のただの隠居じゃ。しばらく居候させてもらう事にした」
 老人は簡単に自己紹介した。

「居候、って親方。部屋が…」
 藤太が親方の方を見た。
「ああ、三郎の使ってた部屋が空いてるんでな。とりあえずはそこに暫く」
 親方は、目線が宙を泳いでいた。

「だってあそこは…」言いかけた春吉を制して、
「ちょっとこい」
 親方は二人を店のたたきの方に引っ張り出して、小声で

「つべこべぬかすんじゃない。俺がいいと言ったらいいんだ。お前等は俺の言う事をだまって聞いてりゃいいんだ。分かったな?」
 親方が睨みつけた。二人には反対する理由はなかった。釈然としないまま、二人は顔を見合わせるのみだった。

「さぁ、遅れを取り戻してもらうぞ」
 親方は手を叩くと、二人を店の表の方へ押し出した。
 その日、二人は遅れを取り戻すべく、店の母屋の裏手にある作業場で働いた。そんな二人を、老人は日がな木箱に座って眺めていたのだった。

 日も暮れかかってきた頃、
「やぁ、ハル。がんばってるな」
 路地の方から、若い女の声がした。春吉はぴくっとしたが、それでも頭も上げずに作業を続けていた。老人が振り返ると、そこには袴に革靴という、時代の最先端のファッションに身を包み、自転車に跨った少女がいた。

「おい、ハル。返事くらいしなよ」
 少女の声は、少々高圧的である。
 春吉は手を止めると立ち上がり、少女の方に歩み寄った。
「俺の事を呼ぶんだったら、ちゃんと名前を言え。俺の名前は『しゅんきち』だ。なんべん言ったら分かるんだ」

「お、怒った。怒った」
 少女が無邪気に笑った。
「お前なぁ。いくら店のお得意さんだからって、いい加減にしろよな。だいたい男に向かって」

「あーら、いいじゃない。年下なんだから」
「年下ったって、たったの三日だろ」
「三日だって、年上は年上よ」
 少女は、全く引き下がる気配もない。

「威勢のいいお嬢さんじゃの」
 老人が座ったまま、声をかけた。
「あら、おじいちゃん、こんにちは」
 少女はぺこりとお辞儀をした。なかなか躾は行き届いているらしい。

「あ、ひょっとしてハルのおじいちゃん?」
 少女は興味津々という口調で、春吉に尋ねた。
「ちがうわい」春吉は言下に否定した。

「わしは福之内喜外と申す。諸国を漫遊中のただの隠居じゃ。しばらくこの家に居候させてもらう事にした」老人は、さっきと同じ科白を繰り返した。
「私は、石崎綾華と申します」少女は、再びお辞儀をした。

「石崎というと…確か三友(さんゆう)財閥の…」
 老人は、記憶を探るように言った。
「まぁ、そんなとこね」
 少女は、特別そのことを鼻にかける風でもなく、気さくに答えた。

「じゃ、しっかり頑張ってね」
 言うが早いか、綾華は自転車を漕ぎ出して、さっそうと遠ざかっていった。
「普通、いいとこのお嬢さんっていやぁ、おしとやかでよ、箸より重いもん持ったこともねぇ、ってのが相場だろ。実際、他の姉妹はおとなしいのに、なぜかあいつだけがどうしようもないお転婆でよ」

 春吉は、綾華の後ろ姿を見送りながら、やれやれといった調子で呟いた。
「いやいや、これからのおなごはああじゃなきゃぁいかん」
 老人は、またも不思議な笑みを浮かべた。

 夜。ようやく仕事も終り、作業場の片付けを終わって、二人が母屋の勝手口から台所に上がると、そこでは老人が既に晩飯を食っていた。二人と同じ、粗末な食事である。
「ようようじいさん。どういうつもりなんだよ、ウチに居候するなんて。よっぽど金がないんか。それにしてもあのケチオヤジがよく承知したよなぁ」
 冷やご飯をよそりながら、藤太が呟いた。

「そりゃ簡単なこっちゃ。わしが小金を握らせたからじゃ」老人がしらっと言った。
「なんでまた。金があるんだったら、旅館にでも泊ればいいのに。ここじゃ、ご覧のとおり、なんにもないぜ」藤太は、あきれ口調に変わっていた。
「まぁ、よいではないか」
 老人は、かちかちに干からびためざしをかじりながら、楽しそうに言った。

 食事を終えると、三人は再び作業場に戻った。そこの二階が二人の住まいだったのだ。
「いいか、昼間親方が言ってた部屋ってのはここだ。見て驚くなよ」
 藤太が指差したのは、二階への階段の下の、縦長一畳半の、とても部屋とは呼べない代物だった。

 煎餅布団の万年床が、床のほぼ全面を覆っていた。
「ここじゃ、人より自転車の部品の方がよっぽど大事に扱われてんのさ」
 藤太は自嘲気味に言った。

「なかなか抜け目のない男のようじゃ。ふぁっふぁっふぁっ」
 老人は、まるでそれを楽しんでいるかのように高笑いした。

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