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第一章
薄暗い廊下に、靴音だけがカン高く響いていた。他に人影はなかった。
靴音が唐突にやむと、辺りに静けさが戻った。一息ついたその男は、目の前のドアを軽くノックすると、中に滑り込んだ。
既にプレゼンテーションは始まっていた。ノート型パソコンの画面をスクリーンに投影しながら、白衣に身を包んだ人物がなにやら説明をしていた。
十名ほどの出席者のうち、自衛隊の制服を着用した数人が、憮然とした表情で振り返ったが、各々やがて説明者の方に向き直った。
遅れてきた男−彼も制服姿だった−は席に着くと、目の前に置かれた資料を手に取り、素早くめくると、画面と同じページで止めた。
「…以上で説明を終わります。何かご質問は?」説明していた白衣姿の男が、一旦言葉を切った。
制服組の一人、リーダー格の人物が、
「技術的に可能であることは、今の説明で分かった。問題は成功の可能性だ。見込みは何パーセントぐらいだね?」と、切り出した。
「各種シミュレーション、動物実験でも実証済みです。百パーセントと申し上げましょう」
白衣姿の男は自信をもって答えた。制服組の間に、軽い驚きの表情が走った。
「予算はどのくらいでしょうか?」別の一人が訊いた。
「各々の基礎研究は、既に完成の域に達しています。センサー類と、中継施設の製造コストが主体になりますので、従来の決戦兵器の百分の一程度です」
今度は、軽い溜息が制服組から漏れた。
制服組は互いの顔を見合わせて、二言三言、言葉を交わしていたが、
「分かった。持ち帰って検討させてもらう。結果は追って通知する。ご苦労」
リーダー格が告げると、制服組が席を立った。
「それから君、部内検討会の時には遅れんようにな」
遅れてきた男を一瞥して声をかけた。
「はっ」男は背筋を一際伸ばすと、敬礼を返しながら答えた。
制服組に続き、白衣姿の数人が出ていくと、部屋には説明していた男と、遅れてきた男の二人だけが残された。
「あれほど目覚ましをかけとけって言ったのに」
後片付けをしながら、白衣の男、松山啓士が言った。
「かけたさ。鳴らなかっただけさ」
遅れてきた男、陸上自衛隊一尉、打田宏幸が、椅子に腰掛け、机に脚を投げ出しながら答えた。
「鳴らなかった、じゃなくて囁かなかった、の間違いだろ」
啓士が、やれやれといった表情で正した。
「ああ、『あたしは早朝ジョギングやってるから朝は強いのよ』なんてぬかしやがるから、安心してたらこのざまだ」
宏幸は、天井を見上げながら口を尖らせた。
「うまくいったようだな」視線を啓士に戻しながら、宏幸がクールな笑いをつくった。
「あとはお前次第だ。本庁会議には絶対に遅れるなよ」
「ああ、次はちゃんと鳴る目覚ましを用意するさ」宏幸は、わざと下手くそなウィンクを返してみせた。
「朝飯まだだろ、どうだ」片付けを終えた啓士が誘った。
「いいね。一運動したあとでもあるし、な」
二人は揃って廊下へ出た。
「あら、おはよう」
ロビーへ出たところで、後ろから若い女性の声がした。
二人が振り返ると、そこにはやはり白衣姿の、水島由記が立っていた。ショートカットの髪が、いかにも快活そうな雰囲気を漂わせていた。
「珍しいわね。二人揃ってこんなに早く」と言いかけて、大きな目がくりっと動いた。
「あぁ、そっか。今日だったのね、例のプレゼン」
「で、どうなの?感触は」
カフェテリアのテーブルに上半身を乗り出すようにして、由記が訊いた。
「勿論、パーフェクトさ」
モーニングセットを頬張りながら、啓士が答えた。
今度は椅子にもたれ掛かるように身をそらせ、
「なんだって、最新の科学技術をそんな野蛮なことに使うのかしら。私はね、人のためになることに使うべきだと思うの」
由記は両手に持ったカップから、コーヒーを一口すすった。
「どこが野蛮なのさ。それに俺たちのやってることだって、充分人のためになるぜ」
啓士が返した。
「あなたのは、結局破壊を引き起こすだけじゃないの。私が言ってるのは、もっとこう建設的なことにって…」
−またはじまった。この二人は顔を突き合わせるとこの話だ−
宏幸は毎度お馴染みの展開に、苦笑を禁じ得なかった。
「まぁまぁ、朝っぱらから夫婦喧嘩はおいといて」ついチャチャを入れずにはいられなかった。
「だれが夫婦だ(よ)」二人が声を揃えて反論した。
二人が結婚するのは時間の問題、と周囲の人々は見ていたが、どうも本人達にはその自覚がないらしい。
宏幸は首をすくめると、再び食べることに専念した。
「さてと、じゃ行くわね」由記は、腕時計を見ながら席を立った。
「なんだ、出かけるのか?」怪訝そうに、啓士が尋ねた。
「この間話した男の子なんだけど、結局彼の家に持ち込むことになったの。私は反対したんだけどね」それまでの快活な由記の表情が、僅かにくもった。
「人のために使うんだろ、喜ばしいことじゃないか」啓士の口元がわずかに引き上がり、皮肉が込められていることを示した。
「使うことはいいのよ。問題なのはやり方。政治家を通じてトップに圧力をかけてくるようなやり方が許せないのよ」
だが由記の、そんな皮肉に気づく余裕すらない様子を見て、啓士は笑いを引っ込めざるを得なかった。
三十分後、施設の正門を二台の大型トラックと、一台のワンボックスワゴンが出ていった。ワゴンの助手席には、由記の姿があった。
その門柱には、小さな銘板がはめ込まれていた。
「VR研究所」
VRとはバーチャルリアリティの略、即ちここは「仮想現実」の研究機関なのだ。
啓士と宏幸が推進するプロジェクトは、ある巨大生物を仮想現実によって撃退することを目的としていた。
そして勿論、巨大生物とは、あの「G」なのだ。
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